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胸はやっぱり大きいほうがいい!?
2005/09/15 10:03
レズビアンの私はノンケ男性とある同じ特性を持っているとよく友達からからかわれるのだが、それはどんなに頑張っても女性の胸をチェックせずにはいられない私の習性に由来しているのだろう。
私は女性の内外問わずすべての美を堪能しているだけなのだ。しかしやはりまず始めに見てしまうところはいつも女性であることを証明する美しい胸の曲線だったりする。
男友達は私は母乳で育ってないのだ、と言う。実際のところ私は母乳で育ち、母乳とは全く関係のないことだと思う。母の乳は小さかった。彼女はいやみっぽく何度も私の胸は彼女の胸と酷似だけでなく、全く同じだという。
ほぼフロイトの完全な失望に値するだろうが、決して私の胸フェチは母と関係ない。
一方、ゲイ友達が私の胸フェチについて言った見解はすべて彼の母に関係していたと思う。私は今まで彼以上に胸に取りつかれている男性に会ったことはないが、ゲイ男性はおよそ胸に関して奇妙な魅惑を持っている気がする。これについては別のコラムで話すとしよう。
一見、私をただの巨乳に勃起する淫乱なレズビアンみたいに思うかもしれない。しかし、私の日常的な女性の胸に関する幾分うっとうしい会話も最近はだんだんと深みを増してきた。
私は女性が好きだ。レズビアンで女性好きなことは当然な話だが、まぁもう少し深く話してみよう。
私は女性が好きだ。しかしその理由は私の目を磁石のようにひきつけるあの燦然たる曲線だけではない。私は女性のにおいや歩き方、声の高さなど女性のすべてが好きなのである。説明困難な女性のアイディア、リアクション、価値観が私を夢中にさせる。もっともタチは説明困難というよりはパワフルな女性なのだが。
世界中にはレズビアンが存在し、主として彼女達は男性を求めない。また、男性も女性も同等に愛することを楽しむ人も存在する。私はそうじゃない。私は全くのレズビアン!でも私もかつては男の人と付き合っていた。常に何かが物足りなかったり、したくないこともしていたに、にもかかわらずだ。硬くて、ちくちくしていて、そんなはずでない匂いがして、まぁとりあえず彼らは男だった。
初めて女性とキスしたとき、私は瞬時に大きな安堵感を味わっていた。ついに私は自分のいるべきところを見つけたのだ。甘く、やわらかい口、唇の曲線、女性に対する女性への感情、それらは信じられないほど私にとって真実だったのだ。
それは今までにも聞いたり話したりする事柄で全く新しいものではないだろう。だから女性の顔よりも胸に集中してしまう私の無能さについて説明する必要もない。それについての確信は私にもないのだから。私にとって疑いもなく女性と定めるキャラクターの一つは顔の2,3インチ下に完全なものとして存在する美しい胸の曲線であり、そう私達は男性容姿と全く異なる装具を身につけている。しかし多くの時代ではとても残念なことに胸は公衆のディスプレイとはされていなかった。
胸は見た目だけでなく象徴的なものとしても魅力的である。それらは魅惑的であり、女性であることの顕著な事実である。それらは私達のセクシャリティーを示し、生殖能力を表している。胸は癪に障るものでありながら、安楽的なものでもある。それらに関するすべてのものは女性的に、また純粋な女性的要素をかきたて、そしてそれらは私をうっとりさせる。タチでもフェムでも私達は女性でありどんなに胸が小さくとも、大きくとも女性である私たちはそれらをかちとったのだ。それらはお互いを感じる深い精神的なつながりを象徴し、心や体、精神的にすべてで一緒に繋がっていく。これほどの出会いの経験はない。胸は美しいものであり、女性すべてが肌の下に持つ女性であることを否定できない明確さを外へ放つ突起物なのである。
私は医療的な事情やなんらかの選択によって胸のない女性に魅力を感じないと言っている訳ではない。ただ胸を見つめてしまう、ただそれだけである。物理的に胸がないということはそれらの精神的な真実を失うものでは決してないのだ。
だから私は女性の胸を見てしまっている自分に気づいてはただそれらの愛らしさを味わうだけでは終われない。私はゴージャスな胸がすきだが、魅力的な胸にだけ限定して見回してはいない。フェムやタチ、ストレート、レズビアン、私は様々なタイプの女性の胸と会話し、口説く。私は胸を渇望するから見るのではなく、私はそれらを愛しているから見つめるのだ。私は女性の心、精神的な部分を愛するのと同様に胸の曲線を愛す。それらは単純に私が今までに見た中で、また見るごとにもっとも完全なものと思えるものなのである。 |