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ローマ教皇庁 同性愛に関する宗教上の規則外を認識
2005/10/17 13:48
(ローマ)同性愛者の神学校に関するバチカン文書の中で、カトリック信仰と同性愛についての議論が収束を見せそうだ。文書が確実に意図しないのは、将来聖職者の中に同性愛者は存在しないということだけである。
多くのアングロ・サクソン系の人にとって、これは理解しがたいことかも知れないが、バチカン(教皇庁)が”no gays in the priesthood(同性愛者の司祭職就任は認めない)”と言う時、実際は”同性愛者の司祭職就任は認めない”を意味していないのである。その本当の意味することは、「一般的な規則として同性愛は良いことではないが、例外が存在するであろうことを理解している」ということだ。
今回のように、言葉と実際に意味するところの区別を理解するには、バチカンに流布する、イタリアの法に関する概念をよく知る必要がある。イタリアの法に関する概念によると、法とは、理想の表現。法は、多くの人が必然的に達することのできない、理想の状態を描いたものである。この考え方はアングロ・サクソン系の「法は、市民が実際に行うことを書き取ったもの」という考え方からは、明らかに排除されているものである。
イタリア人が無法状態に不満を言う一方で、彼らは主観性を強く信じている。イタリアの街の交通を、苦労しつつも乗り越えようとした人なら誰でも、ここでの話のポイントがよく分かると思う。イタリア人が信じるには、人間の生活における果てしない複雑性をカバーできる法は存在せず、厳格に従うべきこととして法を定めるより、人間社会のあるべき理想の姿を描いたものとして法を定める方が、より重要だというのである。イタリアには、堅い法が存在するが、法の執行は非常にゆるい。かつては ”Ministry of Justice and Grace( 司法慈悲省 )” として知られた司法省に匹敵する存在は、ないと思われる。
イギリスの歴史家クリストファー・ダウソンは、ローマカトリック信仰によって形成された精神文化を「性愛的な」と表現する。ダウソンによると、カトリック文化は、経済の問題を優先順位の高い位置におくような、実利に基づくプロテスタント主義のアメリカの‘ブルジョワ'文化と異なり、神聖な(霊的)完成への熱烈な探究心に基づいている。少し前に、あるバチカンの高官が私に「法は、人間が天使だったら物事はきっとこうあるだろうという状態を表したものだ」と話したことがある。
この価値基準は、バチカンの聖職者がしばしば我々の生活に対して厳格な道徳イメージを当てはめようとするのに対し、より具体的な状況においては、彼らが驚くほどに寛容で、理解力ある人になりうることを意味している。例えば、バチカンの政策立案者は、避妊や中絶の問題で、先進国で教会を軽蔑して従わない多くのアメリカ人が、たくさんのカトリック信者の述べることによって興奮してしまうほどには、興奮しない傾向があるというように。これは、バチカンの聖職者が規則を重んじないということではなく、むしろ彼らが、多くの人が見落としがちである理想のまさに本質を信じているということである。
もちろん、避妊・中絶の禁止や神学校における同性愛の禁止がその‘理想'であるかは、議論の余地がある。ここで述べたいのは、教皇庁が決してはっきりと言葉にしなくても、全ての事象において規則が支持されるのを期待している人はいない、ということである。
アングロ・サクソン系の文化圏には、これをある種の偽善だと思う人もいるだろう。造反に対してウィンクする一方で、明らかに、教会は法を発行するのだから。教皇庁の人間は自分たちの考え方を、人間の性質を踏まえた上での現実的な譲歩と見る。
背景として、次期発表の文書−神学校にいる未来の聖職者が禁欲を実践できる限りにおいては、その人物が同性愛者であろうと異性愛者であろうと関係ないと述べる−は、教会における因習的知恵に対して挑戦するものであると話す教皇庁関係者もいる。バチカンの政策立案者と一部のアメリカ人司祭にとっては、それは単純な問題だ。男性ばかりの環境では、性的指向が男性に向いている人は、より大きな誘惑に襲われ、それ故に心配の要因になると言い争うのである。
この考え方は論争可能な提案かもしれないが、結局のところ、同性愛者は聖職者に任命されるべきではないという絶対的な判断を意味するものではない。むしろ、聖職者たちは、同性愛者の司祭候補に対して注意深い目を向けるであろうが、しかし結局は、ベストと思われる判断〔バチカンの法の概念〕を用いるであろう。
妥協を許さないやり方で法を適用しようと決心した者は、きっとそうできるだろう。しかし、カトリックの司祭の中に将来ほとんど同性愛者がいなくなっても−自分が同性愛者であることをオープンに話したがる神学校生徒や聖職者は確実に少なくなるだろうが−‘ gay free( 同性愛者が全くいない ) 'という状況にはならないだろう。
司祭や神学校が決定を迫られるその場に到っても、彼らの多くはやはりイタリアの聖職者的詭弁を持ち出すだろう。‘ If the pope were here, he would understand.( 教皇がここにいらしたら、理解してくださるだろう ) 'と。 |